2014年2月28日金曜日

人間的な交流に背を向ける

人間的な交流に背を向ける

 ユング心理学(Jungian Psychology)は、人と人とのコミュニケーションに背を向ける心理学である。人と人が対面する。その間に、何かが介在する。人と向き合うときに、日本の古代の帝王のように、衝立か御簾を間において対峙しているのである。ここで衝立か御簾とは、集合的無意識とか元型とかと呼ばれる訳の分からないありもしない素っ頓狂な観念である。従って、ユング心理学においては、人と人との触れ合いは皆無である。
 このようなユング派の河合隼雄(Hayao Kawai)が、道徳の副教材「心のノート」を作成した。そのとき、押谷由夫という人物も「心のノート」作成の協力委員のひとりだったと思う。昨年から今年にかけての「心のノート」の改訂版の作成にあたっても、中心的な役割を果たしている。押谷由夫という人物は、河合と考え方が似ている人物なのだろう。河合ファンであるかもしれない。だから、押谷由夫もそうであろうし、「心のノート」も「私たちの道徳」も、その執筆者達はおしなべて河合隼雄的な考え方や生き方をしている人たちなのだろう。
 要するに、「心のノート」も、その後継版「私たちの道徳」も、あの不道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄色、ユング心理学の色彩に染まっているのである。ということは、人と人とのコミュニケーションができない人物達によって、「心のノート」も、その後継版「私たちの道徳」も執筆・作成されたということである。「心のノート」や「私たちの道徳」の執筆者が、自分自身の経験に基づいて書いたものではないということである。観念から導き出された考えを著しているにすぎない。日常のちょっとしたつまづきを経験したことによる心の痛み、苦しみ、悲しみも何もない。他者と心の関わりを持ったことから生ずる喜びや幸福感もない。他者とのコミュニケーションを体験できない人物が執筆した「心のノート」や「私たちの道徳」を、子ども達に配ってもなんになろう。無益であるどころか、むしろ有害であろう。愛を知らなかった夏目漱石の恋愛を扱った小説を(例えば、『それから』などを)、恋愛について学ぶつもりで読んでみたところで、何の足しにもならない。むしろ害になるばかりである(「愛を知らずして人生が語れるか、心の問題を論じることができるか」2月7日付け参照)。

 僕は、「心のノート」の後継版「私たちの道徳」が、この4月から日本の子ども全員に配布されるのを阻止しようとしている。ところが、薄っぺらな愛国心の持ち主であり(「不道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄が作成した『心のノート』の後継版によって日本人のアイデンティティを確立するのか」2月4日付け参照)、精神年齢が子どもの年齢に等しい(「内なる悪を同化すれば、それは即ち悪魔である」2月23日付け参照)安部晋三の内閣の支持率が一向に下がらず、国会も安部晋三内閣を退陣させることができないため、2月28日には2014年度の予算案が衆議院を通過しそうなのである。そうなると、「私たちの道徳」の配布が確定したことになるだろう。ちょっと絶望的な気分になってきた。

2014年2月27日木曜日

空中の楼閣で相撲をとる

今日も、やはりおかしな文章表示だ。何者が邪魔しているのだろう。


空中の楼閣で相撲をとる


 Aというユンギアン(Jungian)がいたとしよう。

Aは、B子さんという女性に愛を告白する。しかし

、この愛の告白は、Aの心の中の女性像(ユング

心理学では、アニマ(anima)と呼ばれる)をB

子さんに投げかけて、B子さんその人ではなく、暖

かい血の通っている生身のB子さんその人ではなく

、Aの心の中の女性像に愛を告白しているのであ

る。本質的・根本的には、AはB子さんとの心の

交流が全くないのである。ユンギアンとは、おしなべ

て愛を知らない人ばかりである。
 このような他者との関わりの仕方は、ユング派に

おいては、何もアニマの元型だけに限らず、影

(shadow)などの元型についても同様のことが

生じている。また、人と人とのコミュニケーションだけ

ではない。人類の歴史や社会や文化や芸術を見

るときにも、その見方のおいて上述のようなことに

類することが起きているのである。つまり、

Jungianが自分勝手に作り上げた空中の楼

閣に土俵を拵えて、その土俵の上で相撲をとって

いるのである。空中の楼閣とは、集合的無意識と

か元型とかのユング心理学における、ありもしない

概念のことである(「心の中の女性像は魂ではな

い」2013年11月24日付参照)。このような空

中の楼閣は、時が経てば、やがて幻のように消え

失せていってしまうことだろう。

2014年2月23日日曜日

内なる悪を同化すれば、それは即ち悪魔である

(この表示、今日は誰かに邪魔されているのかな。)


内なる悪を同化すれば、それは即ち悪魔である


 安部晋三(Shinzo Abe)は、どうやら個人

的な自身の足場固めをしっかりとしないまま、いき

なり全体へと跳ね上がり、愛国主義者になってい

るらしい(「不道徳で冷酷で非人間的な河合隼

雄が作成した『心のノート』の後継版によって日本

人のアイデンティティを確立するのか」2月4日付

参照)。2013年の年末の靖国神社参拝は、自

分がこのように行動すれば他人(他国)はどう感じ

るか、ということを予測し考慮したことのない人物

の行動である。ダボスでの、第1次世界大戦前の

英独関係になぞらえた発言は、自分がこれから述

べることを他人がどのように受けとめるだろうか、と

いうようなことを配慮し予想したことのない人物の

発言である。能天気なものである。精神年齢が

子どもの年齢である。実に幸せな人物である。子

どもは大体、幸せなものである、のではないだろう

か。「心のノート」とか、「私たちの道徳」とか、くそ

面白くもない、見ていて頭が痛くなるような、誰か

の屁の匂いがそこはかとなく漂ってくるような(「ステ

ーション」2013年10月29日付参照)、偽善的

な匂いをぷんぷんさせている冊子を、「読め!」と

強制されなければ。これでは、フォアグラを生産す

るために大量の餌を強制的に食べさせられる鵞

鳥と同じである。そうすると、今の子どもは不幸で

あること極まりない。
 自分の言動を近所の人がどのように受けとめる

か、ということを考慮し予測しないで振舞う空っぽ

頭のShinzo Abeが一国の宰相であることは

、日本にとって不幸であり、危ういことである。これ

では、台頭してくる中国に対抗できないだろう。こ

のような下敷きがあれば、下手をすれば、不測の

事態の発生があると戦争になるかもしれない。偽

者の愛国主義者(自身の個人的な足場固めを

きちんとしないまま全体へと飛び跳ねている愛国

主義者)が国のリーダーになったら、えてして近隣

諸国との摩擦が生じるものである。そして、その摩

擦が、のっぴきならないところまで行ってしまうもの

である。

 『ゲド戦記』(翻訳書は岩波書店刊)の「影との

戦い」は、影(元型としての影。shadow)は私

自身だと言ったとき、それまでの影の激烈さが収ま

った、というような話であった。つまらぬ書物である

。文学性も何もない。内容も、このように空疎で

ある。よくも児童書として出版したものだ。こんな

悪書を子どもに与えるのは、実にけしからんではな

いか。
 ユング心理学においては、その個性化の初期段

階で、元型としての影を取り入れ、取り込み、同

化する。それは、正統派精神分析(フロイトの精

神分析)で言うところの、抑圧された感情の意識

化とは本質的に異なる。次元が違うのである。正

統派精神分析の場合は、自我が抑圧された感

情を支配しコントロールするために意識化するの

であるが、邪道派精神分析(ユング派、

Jungian)の場合は、自我が乗っ取られてしま

うのである。自我が、元型としての影を取り入れ、

取り込み、同化するのである。悪魔の自我

(devil's ego)になるのである。まさに影

(心の内なる悪なるもの)に、なりきるのである。

Carl Gustav Jungは、とても自我の弱

い人間であったと言われている。そのような人間が

、悪なるものを自我に同化してしまったら、自我は

どうかしてしまうではないか。自我は、ハンドルを制

御できない運転手になってしまう。
 Jungianは、愛を知らないものばかりである(

2月7日付けの「愛を知らずして人生が語れるか

、心の問題を論じることができるか」参照)。それ

なのに、偉そうに心の問題だとか心の教育だとか

説いている。本来、Jungianには、このような

問題を論じる資格がない。世の中には、偽物の

愛が多いから、愛を知らない者が偉そうな顔をし

て勢いづいているのだろうか。愛を知らない者が、

そんな変なことをするな。
 現実の生身の人間との交流を失い、愛を知ら

ない者が、集合的無意識や元型などという、あり

もしない概念に夢中になり、それにのめり込んでい

る。そんなやつらが、影は私自身だ、と叫んでいる

。恐ろしいことではないか。河合隼雄(Hayao

Kawai)の不道徳で冷酷で非人間的な行動

を見るがいい(「愛を知らずして人生が語れるか、

心の問題を論じることができるか」2月7日など参

照)。悪魔の僕ではないか。このようなやつらを野

放しにしておいてはならない。存在することさえ許

してはならない。

2014年2月12日水曜日

インターネットは誰かに支配されているのか

(このサイトについては、古いほうから順に読んでいただいたほうがよろしいかと思います。)

インターネットは誰かに支配されているのか

 僕はこのWebサイトに掲載する記事を、メモ帳で書いてコピー&ペーストしている。Officeが駄目になって、Wordが使えなくなったからである。このサイトのコンテンツをご覧になれば分かるように、表示が改行だらけの実に読みにくいものになっているときと、すっきりときれいになっているときがある。これは、僕がわざとしていることではない。僕には、どうしようもないことなのである。うまくコピー&ペーストできるときと、できないときがある。
 誰かにパソコンを勝手にいじられているか、インターネット自体が何者かによって好き勝手に支配されているとしか考えられない。このサイトのアクセス数が、絶対にありえない数字になっているときもある。
 誰かがインターネットを支配して恣意的に操っているとすれば、すさまじいことになる。例えば、様々なWebサイトで広告を掲載しているが、そのサイトの閲覧数や広告をクリックした数が広告収入の額に影響するのではないだろうか。閲覧数やクリックの数が何者かに好き勝手に操作されていると、広告収入が何者かに恣意的に決められていることになる。インターネットを支配している者達にとって都合のよいWebサイトには多くの広告収入を、気に入らないWebサイトには実際よりも遥かに少ない広告収入を得させることになる。一体、こいつらは何者なのだろうか。NSAだろうか。それとも・・・・。

2014年2月7日金曜日

愛を知らずして人生が語れるか、心の問題を論じることができるか

愛を知らずして人生が語れるか、心の問題を論じることができるか

 夏目漱石(Soseki Natsume)の小説の恋愛を扱ったものに登場するヒロインには、実在感がない。『三四郎』の美ね子(フォントがない。しめすへんに、爾と書くのではなかったか)にしても、『それから』の三千代にしても、『門』のお米にしても、『こころ』のお嬢さんにしても、その息づかいが感じられないのである。おそらく夏目漱石は、愛を知らなかったのだろう。漱石が小説で描いた女性は、たぶんイギリス文学等を読み込んで形成された女性像ではなかっただろうか。それを日本風に書き直しただけだ。観念のみによって紡ぎ出された女性の姿なのである。個人的な経験の裏づけが全くない女性像なのである。だから存在感がない。
 愛を知らない者は、文学者・芸術家になる資格はない。それとともに、愛を知らない者は、心理学者にもなる資格はない。ユング派の河合隼雄(Hayao Kawai)も氏原寛(Hiroshi Ujihara)も、愛を知らないのだろう。愛を知る人が、日本臨床心理学会で、子どもに対して自分が行った心理検査の取り扱いの非人間性を批判されると、かんかんに怒って学会を飛び出して、心理臨床学会などという変な学会を立ち上げるだろうか。2度も詐欺犯罪(ウソツキ退職)をなした者が、愛を知っているわけがなかろう。また、2千人以上もいると考えられる教え子の誰ひとりとして超有名人になったKawaiの思い出話を語りたがらない。Kawaiは、実に愛に遠い存在であった。冷酷で非人間的であった。Hayao Kawaiが、フルートの演奏会を開いていたことを覚えておられるだろうか。心理学関連の自著が売れに売れた。すると、たちまち、俺はフルートも吹けるのだぞと、演奏会を開催する。どうだ、なかなか芸術的だろう、というわけである。まったく、こいつのやっていること、考えていることは訳が分からない。それで、そのフルート演奏は、どのような演奏だったのか。そんなことは聴かなくても分かる。ひどい演奏であった。聞くに堪えない演奏であった。小学校の学芸会の演奏よりもひどかっただろう。愛を知らない者は、芸術にとって門外漢である。芸術にとって、異邦人みたいなものである。
 Hayao Kawaiの弟子のHiroshi Ujiharaも、Kawai同様に愛を知らないにちがいない。それはそうだろう。集合的無意識とか元型とか、訳の分からないありもしないものにとりつかれていては、目の前の生身の人間が、遥かかなたの手の届かないところに遠のいてしまう。ユング心理学とは、愛のない世界で戯言を並べている心理学である。そのUjiharaが、作家になりたいと心理学関連の著書の中で述べていたのである(氏原寛著『カウンセリングの枠組み』ミネルヴァ書房刊)。愛を知らぬものが、文学者になることは不可能である。その上、Ujiharaの文章を、拾い読みでもいいから読んでみるがいい。中学生の作文かと思うほど稚拙なひどい文章なのである。音痴がテノール歌手になりたいと公言しているようなものである。Ujiharaが作家になりたいと公言していたのは、少なくとも2・30年前のことであるが、Ujiharaが作家になって作品を発表したという話は聞いたことがない。ただの訳の分からない戯言だったのである。もっとも、愛を知らない、文章が下手糞だということであれば、作家になれるはずもない。
 偉大な芸術は、個に徹することによって優れた芸術になったのである。逆説的に聞こえるかもしれないが、個に徹することによって普遍性を獲得する。ユング心理学のように普遍と間違って考えているのもの、集合的と誤って看做しているものに根拠を置いてしまったら芸術の創造ができるはずがない。従って、村上春樹や宮崎駿は偽者である。
 不道徳で非人間的で、愛を知らないHayao Kawaiに道徳の教科書の前身である「心のノート」を作成させるとはなにごとか。影の元型(内なる悪なるもの)を自我が取り込んでしまうユング派の親玉に道徳の教科書の前身である「心のノート」を作成させるとはなにごとか。絶対に許さぬ。Shinzo Abe。Hirobumi Shimomura。子ども達に、多額の税金を使って有害図書を配布するな。そんなことをしたら、叩き殺してやるぞ。

2014年2月4日火曜日

不道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄が作成し た「心のノート」の後継版によって日本人のアイデ ンティティを確立するのか

不道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄が作成し

た「心のノート」の後継版によって日本人のアイデ

ンティティを確立するのか


 安部晋三(Shinzo Abe)や右翼的な考え

を持った人々に対しては、一般の人は何だか近

寄りがたい、どういうわけかちょっと怖いという印象

を受ける。国を愛するということについては、誰も

異議を唱えることはできない。それにもかかわらず

、どういう訳か、そのような人々から身を引いてしま

うのである。何故なのだろうか。
 安部晋三始め右翼的な考えの人々の愛国心

なるものは、実はもっと卑近な日常的な個人的な

、そして傷ついた道徳心を慰撫するための道具に

すぎないのではないだろうか。日常生活において、

どうも俺は道徳的に人間的にいまひとつだなあ、と

感じている。日常、ちょっとしたことで倫理的に失

敗したと感じる。その挫折感が集積して、俺は人

間として失格なのではないだろうかという懸念にな

る。このような不安・懸念を慰謝するために、国の

ために華々しく散っていった人々のイメージを思い

浮かべる。俺もあのように美しくも儚くも死ぬことが

できたら、この上なく幸せなことだろう。そして、癒さ

れたような気がすることだろう。しかも、普段は俺の

ことを軽蔑しているやつらが、俺を英雄として扱い

、英霊として祭ってくれるではないか。
 このような国粋主義・愛国心は、どこか近寄りが

たいのである。表立って異を唱えることはできない

が、できるならばこのような人々とはお近づきになり

たくない。それは、個による躓き・傷つきを全体的

なもの、普遍的なもの、集合的なものによって慰

謝しようとしているからである。そこが、何となく恐い

印象を与えるのである。全体的なもの、普遍的な

もの、集合的なものを、ユング心理学の集合的

無意識(普遍的無意識)に対応させて考えてい

ただいても構わない。個人的な側面の足場固め

をしっかりしないまま、いきなり普遍へ、集合へ、全

体へと飛び跳ねてしまっているところが恐ろしい印

象を与えてしまうのである。さて、こんなことで個人

としての傷つきや挫折感が真に治癒されるのであ

ろうか。そんなことだから、小林よしのりに「安倍首

相の靖国参拝は英霊を侮辱した」と批判される

のではないだろうか

(http://zasshi.news.yahoo.c

o.jp/article?a=20140131-

00000019-pseven-soci
NEWS ポストセブン 1月31日(金))。河合

隼雄(Hayao Kawai)を見るがいい。自分

個人の問題さえ解決できないくせに(不道徳な2

度のウソツキ退職や高校の教え子に嫌われてい

たことや日本臨床心理学会での非人間的な出

来事など)、「心のノート」で偉そうに愛国心だの

公徳心だのと訓戒をたれていたではないか。だから

、胡散臭い、いかがわしい臭いをぷんぷんと放って

いたのだ。まず、自分自身の問題から何とかせよ


 「心のノート」の後継版の「私たちの道徳」の執

筆者たちも、Hayao Kawaiと同様に偽善者

である。日本の子ども全員に配布される道徳の

教科書を執筆されたほど大変なことを行われたの

で、執筆者の皆さんの道徳性なるものを確認させ

てほしいと問いかけても返事もしない。国民が質

問しても、無視しやがるのである。実に不誠実で

不道徳である。このような国民を見下した、馬鹿

にした者たちに道徳の教科書を執筆させるとは何

事か。このような輩は、まず自分自身の個人的な

問題を解決してから、道徳教育を論ずべきなので

ある。自己の道徳的問題・精神的問題を解決し

た上で、道徳教育を論ずるのでなければ、子ども

たちにとっては有害なもの以外のなにものでもない


 Hayao Kawaiを見れば、Jungianはい

かに恐ろしいものであるかということが分かるであろ

う。「個性化」(individualization)の

過程において、まず影の元型を自我が取り込んで

しまうのである。最初から道徳的な問題を放棄し

てしまっている。そうすると、Kawaiのような不道

徳な犯罪者でも個性化の最終的なゴールに辿り

着くことになり、恐ろしい冷酷で非人間的な人物

が誕生することになる。日本臨床心理学会で自

らの、子どもに対して行った心理検査の非人間

性を批判されると、かんかんに怒って学会を飛び

出して心理臨床学会という変な名称の学会を設

立する。Kawaiには、人間の暖かい血が通って

いるのだろうか。Kawaiの心は、機械かコンピュ

ータの心ではないのか。Kawaiを見ていると、人

間ではない化け物を見ているような気がする。

Kawaiファンの村上春樹も同じである。これがユ

ング心理学の「個性化」なるものの成れの果てな

のである。集合的無意識などという、ありもしない

幻を追い求めていたら、どんなすさまじいことになる

か、ということを実証している。ユング心理学は、

心の全体主義である。Kawaiを見れば分かるよ

うに、Jungian Psychologyがどんなに

恐ろしいものか、ということである。個ではなく全体

で癒す、これは実に安易なやり方なのである。個

に徹することがどんなに苦しいか、その苦しみを避

けようとするものである。
 ユンギアン(Jungiaのn)の世界は、ミツバチ

の世界である。一匹一匹が(ひとりひとりが)個性

を失っている(実際のミツバチには、個性があるか

もしれないが)。みんな、ありもしない集合的無意

識を実在するものと誤信しているからである。村

上春樹の馬鹿が、心と心がつががっている、と言う

とき、それは自らの心が消失したことを意味するの

だ。
 個人としての足場固めをしっかりとした上での国

粋主義や愛国主義は、押しも押されぬ本物だと

思う。とにかく心の問題や精神の問題は、演繹的

な技法に頼るのではなく、帰納的技法に拠るので

ないといけない。個人としての解決を等閑にしたま

ま、いきなり全体へと飛び跳ねてしまうと、どのよう

なことが起きるのか。他を傷つけることになってしま

うのである。信念をもって他を侵す。自分たちこそ

が絶対的な真理の体現者なのだ、という信念を

掲げて他を侵すものほど恐ろしいものはない。
 精神の全体主義の難点と罪は、個を蔑ろにす

る点にある。個を生きることが、どんなに惨めでみ

すぼらしいものであっても、とにかくわれわれは個に

徹する以外に道はない。そして逆説的かもしれな

いが、個に徹することこそが真の普遍に至る唯一

の道なのである。
 道徳は、あくまでも個の人格を通して伝えらるべ

きものであって、さあ、これから道徳を教えてやるぞ

と大見得を切って一斉授業で教えるものではない

。道徳も精神の問題であり、心の問題であろうか

ら、このような一斉授業は、まさに演繹的な技法

に頼ろうとするものである。このような教育を受けた

人が国民の大半を占めると、全体主義国家へと

ひた走ることになるかもしれない。
 道徳を教科化して授業で教えるという安易なや

り方をしてはいけない。道徳の時間に、「いじめは

ひきょうな行為だと規範意識を教え」(衆議院予

算委員会でのShinzo Abeの発言)ても効

果があるだろうか。不道徳で冷酷で非人間的な

河合隼雄が作成した「心のノート」の後継版をモ

デルにして、「日本人のアイデンティティーを確立す

ることも大事だ」(衆議院予算委員会での

Shinzo Abeの発言)と言うのか。何を考えて

いるのだ。これは、国費の無駄遣いではなく、国

費の悪用だ。親の教育する力がなくなっている。

地域社会や親類縁者も子どもを教え諭す力が

ない。子どもは家に閉じこもって、コンピュータを使

ったゲームに夢中になっている。こうなったら万事

休すである。それならば、教員の質を向上させる

ことに金をつぎ込み力を入れたほうがよい。国語や

社会などの授業中に教材に関連して話すエピソ

ードや四方山話に教育的効果を期待できるかも

しれない。そのような教員を採用するようにするべ

きである。また無断欠席や遅刻をした生徒に対す

る対応次第で、生徒に対する教育的効果がずい

ぶんと違ってくる。教員の質の向上に金をかければ

よいわけである。さらに、考える力を育てよ。そのた

めには、国語科の教員に有能な人材を配置する

ように努めるべきである。
 官庁は、会計検査院が恐いに決まっている。「

心のノート」を慌てて名称変更した「私たちの道

徳」を配布するな。いくら名前を変えても、あの不

道徳で冷酷で非人間的な河合隼雄の作成した

「心のノート」の後継版であることに変わりはない。

国費の無駄遣いどころか、国費の悪用である。「

私たちの道徳」を配布するようなことがあれば、会

計検査院が黙って見ていないだろう。